風まち通信

国内を旅して出会った町並みや建築、そして建築家の人たちのことなどをお伝えしていきたいと思います

2017-10

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昔町百景 -第22回-

 「勝沼」
     
      葡萄の里に残るもの                 山梨県甲州市勝沼   
      katumuma
   
 
       勝沼は甲州街道の宿場町である。葡萄の産地として名高い。町の
      パンフレットは葡萄ばかりで、町の歴史については書かれていない。
      僅かな街道遺産など人を呼べないということなのだろう。歴史に関し
      ては、葡萄伝説が記されている。養老2年(718)に、日川の畔りで
      修行する行基の眼前に薬師如来が現れた。感動した行基はその姿
      を木で刻み、大善寺に安置、法薬とされていた葡萄の栽培方法をこ
      の地の人々に伝えたと書かれていた。その大善寺は甲州市の東京
      寄りの旧大和村の高台にある。茅葺の本堂は国宝、薬師三尊像、
      十二神将など多くの国重文の仏像を有する関東でも有数の名刹であ
      る。 勝沼から車で数分だから、ここは是非訪れるべきである。
        甲州街道は、日本の五街道の中では最も整備の遅れた道であった。
      宿場はどこもスケールはなく、 鄙びたといったほうが良いような田舎
      宿が多かったようだ。勝沼宿は鳥沢宿と共に古い建物が残っている。
      連子格子の美しい商家、なまこ壁の蔵が点在する上町辺りから役場
      前交差点辺りまでの、 ほんの僅かな間だけが見所で後は見栄えの
      する風景はない。 その中見栄えする中に「旧田中銀行(国登録文化
      財)」がある。 建物を手掛けたのは、甲府の睦沢学校(国重文)も造っ
      た棟梁・松木輝殷。松木が和紙に書いた設計図が残されている。
      建物は明治30年に勝沼郵便電信局舎として建てられ、明治35年ま
      で機能した。大正9年に田中薫作らが中心となって田中銀行が設立
      され、その社屋として改修、転用された。 裏庭にレンガ蔵、繭蔵、米
      蔵も残されている。葡萄だけが勝沼ではないのである。
        甲州市は大善寺の他にも恵林寺、放光寺、雲峰寺など名刹が多い。
      俳聖・芭蕉も勝沼を訪れて次の句が伝わる。
             「勝沼や 馬子も葡萄を 喰いながら」
      本当に芭蕉作なら拙い句である。


                                   :atelier M5 Ki


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昔町百景 -第21回 -

「四間道」
    
         大都会の昔町         愛知県名古屋市西区
                           ★市指定町なみ保存地区

    
            shikenmiti01

      四間道は名古屋駅から徒歩15分、通勤者が往来する大通りのすぐ近く
     の堀川沿いにある。 「しけみち」とは何とも妙な名である。 名古屋城の築
     城は慶長15年(1610)に始まる。それまでの尾張の中心は清洲で、名古
     屋城完成後に清洲から武士、町人に至るまで全てが転居した。 これを
     「清洲越し」と呼ぶ。 堀川は、名古屋城と熱田港を結んだ水路で、この水
     運を利用して城下町はの物資が運ばれた。 堀川の整備事業は、福島正
     則を頭に20名の大名によって行われた。川沿いの商家の玄関は、水運の
     便を考慮した堀川に向けられ、土蔵は家の裏手に造られた。
      四間道一帯は元禄13年(1770)に大火に遭い、 1649軒の民家と15の
     社寺を焼失、再建の時に防火を考慮して裏手の道を4間巾(約7m)に拡
     張し、東側を石段で高くしてその上に蔵を建て、西側に商家を造った。 こ
     こから四間道と呼ばれるようになった。最初は妙な名前と思う人は多いが、
     単なる道路巾から付いた呼び名である。 しかし防火的町づくりの効果はな
     く、後の享保の頃の火災では、以前に増す被害が出たという。 したがって
     今残されている町並みはそれ以降の再建である。町の中心は、堀川に架
     かる五條橋、中橋の西側で、橋畔には荷揚げ場の石畳が残る。
       見所は蔵の並ぶ辺りだが、町の大きさは大したものではなく、格子の町
     屋が連続する見事さもない。 驚くのは、再開発の名のもとに何でも壊して
     しまいそうな不節操な大都会のビル街に、昔町が生き残っていることで、 
     類例は少ない。 上空から見れば、ビルの谷間の一角に時代劇のセットが
     組まれたように見えるだろう。 四間道は、屋根神様の載る民家などを見な
     がら、1時間ほどの町歩きをするには格好のオフイス街の昔町である。
     町屋を転用した喫茶店などもあるから、それも楽しめる。

                                   
                                  :atelier M5 Ki

テーマ:街並 - ジャンル:旅行

昔町百景-第20回-

「奈良井」

        中山道一の高地の宿場        長野県木曽郡楢川村 
                               ☆重要建造物群保存地区

            naraisyuku
  
     かつては楢井とも書かれた、中仙道34番目の宿場。木曾11宿の中では、
    妻籠、馬籠と並ぶ大きさで標高は最も高い。奈良井駅から鎮(しずめ)神社
    までの1.2kmの長さがある。しかし、宿場が作られた当初は本陣1、脇本
    陣1、旅籠5という小規模な宿場であった。鳥居峠の掛り口ということもあっ
    て賑わい、他の峠際の宿場同様に巨大化し 「奈良井千軒」 ともいわれた大
    きさである。宿場内の道路は比較的広く歩き易い。江戸寄りから下町、中町、
    上町と別れ、一箇所、枡形になっている所以外は一直線の町並みである。
    今も伊勢屋、越後屋などの老舗の旅籠始めとする多くの宿や商店で賑わい
    を見せている。旅籠の間に民家が混じり、地酒「杉の森」で知られる平野酒
    造店もある。「とくりや」の庵看板のある原邸はかつての旅籠「とく利屋兵右
    衛門」である。現在は内部を郷土館として公開している。
     家は二階建で板葺き屋根だった。 在は鉄板に代わっているが、かつては、
    勾配の緩い板葺き石置屋根がほとんどだった。 二階の屋根は大きく張り出
    して一階の庇を越えるほどである。一階の庇は今も板葺きで厚い板を段重
    ねし、垂木は板上にあり段に合わせて削っている。段にした部分を丸く猿の
    頭のようにしてある、 れは「猿頭」と呼ぶ奈良井独特のもの。集落の中ほど
    に、上問屋史料館 (手塚家)がある天保11年の竣工で、当時の面影を良く
    伝える遺構である。 隣りの旅籠「伊勢屋」は江戸寄りにあるので下問屋。
    襖で仕切る 三室が二階の街道沿いあるが、現在の宿泊は裏の新しい棟で
    ある。 斜め向いの旅籠「越後屋」も素晴らしい。 鍵の手の少し先に文化財
    の中村家がある、もと櫛問屋で延享の頃の竣工という。  30ほど前に訪ね
    た時は土産物屋もちらほらで良かったが、今は大土産商店街と化して団体
    客が列を成すから、旅情を味わうという雰囲気ではないが、奈良井を見ずし
    て木曽を旅したとは いいにくかろう。



                                     :atrlier M5 Ki


昔町百景 -鳳来- 第19回

「鳳来」

  仏法僧の泣く宿場町                愛知県豊田市

   hourai02

   旧鳳来町の大字は全て新城市の大字となったが、旧鳳来町域で
 「 鳳来 」の名称復活是否の住民意識調査を行い、是が過半数を超
 えた大字より旧作手村域にならって、新城市鳳来・・の呼称にすると
 しているという。 良いことである、平成の大統廃合で、古くからの町
 名などが変わった。行政の都合で何でも変えれば良いというわけで
 はない。財源などのことはあっても、意味のある名前を残しながらの
 改革は有能ならできるはずである。 人に歴史があるように、地名に
 も重要な歴史があり無視してはならない。
   鳳来は浜名湖の北約30kmほど、奇岩山である鳳来寺山の麓に
 ある小さな町である。鳳来寺山は、仏法僧(ぶっぽそう=コノハズク)
 で良く知られている。目的の町並みは、長篠の戦いで知られる設楽
 原に近い。長篠城は永正5年(1508)に菅沼元成が築城。豊川と宇
 連川の合流点にあり、東西南面は川に面して不落の城として築かれ
 た。長篠の戦いは、織田・徳川と武田の戦いで、その頃の城主奥平
 貞昌(後の信昌)はわずか500の兵だったが、武田軍の1万5千の
 大軍に城を囲まれ、その攻撃を耐えながら鳥居強右衛門勝商の活
 躍で織田・徳川連合軍の勝利に貢献した。この時、連合軍は初めて
 の火縄銃を使用し、1日で雌雄を決した。鉄砲が武田の騎馬軍団を
 崩壊させた一戦である。
   町並みの見所は、三河大野一帯。 大野は、宇連川沿いにある秋
 葉街道の宿場町であり、豊橋から別所(東栄町)を経て長野県飯田
 市へ通じる別所街道の分岐でもあった。別所街道は現在の国道151
 号線がほぼ踏襲している。R151号は、町の中央入口付近で直角に
 折れて町を避けているため、 町は宿場町時代の町並みが残ったの
 である。大野宿は小林通りにある。曲りながら緩やかな坂道に、平屋、
 つし二階、本二階建の平入りの家並みが続く。連子格子の家は旅籠
 風である。町の中央部に、近代洋風建築の「豊川信用金庫三河大野
 出張所」が現役で使い続けられていて喜ばしい。

  知名度も低く、旅人の姿も見えない。自分の靴音が街道に高い静
 寂の宿場町である。



                              :M5/Ki


昔町百景-大内宿-第18回

「大内宿」

  茅葺きの並ぶ町                    福島県南会津郡
  ★重要伝統的建造物群保存地区


    ooutisyuku

    大内宿は会津若松と日光、今市を結ぶ会津西街道(南山と織り)の
   宿場の一つである。街道は、会津藩が江戸初期に江戸への幹線道路
   として整備し、参勤交代や物資の輸送で栄えた。五街道の一つである
   奥州街道より短く、物価も安かったことも栄えた理由であった。
    大内が宿場として整備されたのは17世紀中頃といわれ、本陣、脇
   本陣もおかれた。 宿場は、南北約500m、東西200m、寄棟造りの
   家が整列する様は圧巻である。多くの家は江戸後期~明治の竣工で
   ある。かつては道路の中央に広い溝が設けられて用水として利用され
   たが、明治19年に埋められ、道路の両側に流れが造られ洗い場も設け
   られて今も活用されている。
    ここも「馬宿」と呼ばれる宿場である。馬宿とは馬を引く人が多く泊る
   からだ、人より馬の方が多くなったりする。家が等間隔で並んでいるの
   は、家と家の間は駒繋ぎのスペースの必要から生まれたものだという。
  集落へは車は入れない。入口の大駐車場に車を置いて歩く。今は観光
   バスが列を成す有様で、ほとんどの家が宿か土産物屋となって、風情
   を楽しむ向きにはお奨めできかねるが、一度は観ておいた方が良い見
   事な茅葺集落である。
   集落の突き当たりの神社からの眺めは絶景!
  
                       
                             :atelier M5/Ki

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