昔町百景 -集落をあるく-
「出雲崎」
紙風船の里の妻入り集落 新潟県三島郡出雲崎町

出雲崎は、江戸時代は天領だった地である。ここは単なる漁港ではなく、佐渡と
を結ぶ港でもあった。この日本海沿いの漁村が天領(幕府の直轄地)となったのは、
偏に佐渡の金のためであった。良寛の里としているが、良寛がここに住んだのは、
70歳からの3年間、41歳も年下の貞心尼と愛の暮らしを送っただけである。
俳聖・芭蕉も元禄2年7月に、奥の細道の旅でここを訪れている。芭蕉園ちう庭園
も造られている。
集落は、日本海に面して一筋道に、妻入りの民家が3.6km連なる。日本一の
長さで、通り抜けるだけでも1時間近くを要する大散歩となる。妻入りの「妻」とは
大棟と直角の壁側、つまり建物の短辺側をいう。長手側は「平」という。江戸時代
には、ここでは間口の大きさで税金を徴収していたので、間口が狭く奥に深い(長い)
家が造られたのである。ほとんどの家が3間前後である。当時の出雲崎は、越後一
の人口密度であったため、海沿いの狭い土地の有効利用にも、街道に多くの家が
玄関を構えれるこの建築様式は好都合だった。
また「佐渡おけさ」の源流はこの地であるといわれる。
昔懐かしい紙風船も、全国の生産量のほとんどがこの出雲崎である。
atelierM5 / Ki
紙風船の里の妻入り集落 新潟県三島郡出雲崎町

出雲崎は、江戸時代は天領だった地である。ここは単なる漁港ではなく、佐渡と
を結ぶ港でもあった。この日本海沿いの漁村が天領(幕府の直轄地)となったのは、
偏に佐渡の金のためであった。良寛の里としているが、良寛がここに住んだのは、
70歳からの3年間、41歳も年下の貞心尼と愛の暮らしを送っただけである。
俳聖・芭蕉も元禄2年7月に、奥の細道の旅でここを訪れている。芭蕉園ちう庭園
も造られている。
集落は、日本海に面して一筋道に、妻入りの民家が3.6km連なる。日本一の
長さで、通り抜けるだけでも1時間近くを要する大散歩となる。妻入りの「妻」とは
大棟と直角の壁側、つまり建物の短辺側をいう。長手側は「平」という。江戸時代
には、ここでは間口の大きさで税金を徴収していたので、間口が狭く奥に深い(長い)
家が造られたのである。ほとんどの家が3間前後である。当時の出雲崎は、越後一
の人口密度であったため、海沿いの狭い土地の有効利用にも、街道に多くの家が
玄関を構えれるこの建築様式は好都合だった。
また「佐渡おけさ」の源流はこの地であるといわれる。
昔懐かしい紙風船も、全国の生産量のほとんどがこの出雲崎である。

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