昔町百景-杉山- 第17回
「杉山」
静かなるもう一つの蔵の町 福島県喜多方市杉山

会津は蔵の街である。その数は2千棟を越すといわれる。 喜多方は
永禄7年(1564)に市(いち)が始まった頃に町が成立したといわれる。
当時から年貢は金納だったので、 農産物を売って金に換える市が立っ
たのである。その結果、蔵が必要になり、多くの蔵ができた。商品蔵が
ほとんどで、急増したのは明治13年の大火以後といわれる。大火でも
商品が焼けなかったことが急増の理由だろう。
杉山は、喜多方の市街を抜けて米沢保面に9km行った山間にある農
村である。 13戸の家が小集落を作っているが、 見事な蔵が街道に面し
て並んでいる。蔵に家が付いているかのような見事な蔵の存在感であり、
面白い姿ともいえる。農家にこのような派手な商品蔵は不要なはずだが、
なぜこんな立派な蔵が要ったかと訝らざるを得ない。 想像だが、喜多方
市内の蔵など見て、蔵を造ることがステータス思ったのではないかという
見方もあるし、流行だからという、甚だ自主性に乏しい蔵造りが生んだ風
景かもしれない。ともあれ訪ねる価値はある。
この集落では、団体観光客に出会うことが稀で、それだけでも静かで
良い旅になる。
:atelierM5/Ki
静かなるもう一つの蔵の町 福島県喜多方市杉山

会津は蔵の街である。その数は2千棟を越すといわれる。 喜多方は
永禄7年(1564)に市(いち)が始まった頃に町が成立したといわれる。
当時から年貢は金納だったので、 農産物を売って金に換える市が立っ
たのである。その結果、蔵が必要になり、多くの蔵ができた。商品蔵が
ほとんどで、急増したのは明治13年の大火以後といわれる。大火でも
商品が焼けなかったことが急増の理由だろう。
杉山は、喜多方の市街を抜けて米沢保面に9km行った山間にある農
村である。 13戸の家が小集落を作っているが、 見事な蔵が街道に面し
て並んでいる。蔵に家が付いているかのような見事な蔵の存在感であり、
面白い姿ともいえる。農家にこのような派手な商品蔵は不要なはずだが、
なぜこんな立派な蔵が要ったかと訝らざるを得ない。 想像だが、喜多方
市内の蔵など見て、蔵を造ることがステータス思ったのではないかという
見方もあるし、流行だからという、甚だ自主性に乏しい蔵造りが生んだ風
景かもしれない。ともあれ訪ねる価値はある。
この集落では、団体観光客に出会うことが稀で、それだけでも静かで
良い旅になる。

建築家訪問記 -福島の辺見美津男さん-
高台の家


数年前に郡山で、スライド講演会をした。前回登場した建築家
の嶋影健一からの依頼で、JIA福島の主催だったかと思う。その
時は見えたとのことだったが、名刺の交換はなかったようだ。
今年7月頃、突然辺見さんから電話があって、3~4つ作品が
できたので撮りにきて欲しいという。顔が思い浮かぶわけもなく、
ネットで事務所のHPだけ見て出かけた。古い蔵を改修して事務
所にしたという。そういえば嶋影さんがそんなことを話していたなぁ、
彼のことだったんだ、と納得。
事務所は白河市のほどほどに静かな場所であった。穏やかそう
な人、辺見さんの初対面の印象だった。蔵を直したアトリエと学校と
保育園と住宅を1軒づつ撮った。作品はどれも手馴れた感じがした。
撮っている時はアトリエが面白かったが、今は何故かあまり気負った
感じがない傾斜地に建つ住宅が記憶に残っている。あまりお金をか
けないで造った分、しつこさがない。どの建築家にもいえることで、
予算不足の作品には余分がなく、質実で好感が持てるものが多い。
その家もそうだった。
辺見さんと2日ほど一緒にいたら、帰る頃には最初の印象とは
異なり、かなり熱い人だという印象に変わってきた。どこかにいた
なぁそんな人。そうだ!嶋影さんだ。彼と辺見さんは仲良しのようだ。
類は友を呼ぶことは事実である。郡山はもう雪の季節である。今宵
も酒でも飲みながら、建築に熱い話をどこかの居酒屋でしているん
だろう、と想像しながら2人の顔を思い浮かべる江戸の晩秋である。
:宮本和義
作品の紹介
城下町のなごりを残す福島県白河市に建つ一部鉄筋コンク
リート造の木造平屋建ての住宅である。高台の家の名の通り
北西方向に那須連峰を望む高台に建っている。テラスへの掃
き出しの開口は引き込みになっており、開放すれば視界が連
峰へと広がるようになっている。リビングには寒さのの厳しいこ
の地方での暖房にと薪ストーブがリビングに置かれている。
また南には、季節の移り変わりを近くに感じれれるように紅葉
が植栽され、障子の向こうに風にゆれる彩りをみることができる。
:aterier M5/Ki
辺見さんの事務所 (有)辺見美津男設計室 福島県白河市
連絡先 TEL 0248-23-1788


数年前に郡山で、スライド講演会をした。前回登場した建築家
の嶋影健一からの依頼で、JIA福島の主催だったかと思う。その
時は見えたとのことだったが、名刺の交換はなかったようだ。
今年7月頃、突然辺見さんから電話があって、3~4つ作品が
できたので撮りにきて欲しいという。顔が思い浮かぶわけもなく、
ネットで事務所のHPだけ見て出かけた。古い蔵を改修して事務
所にしたという。そういえば嶋影さんがそんなことを話していたなぁ、
彼のことだったんだ、と納得。
事務所は白河市のほどほどに静かな場所であった。穏やかそう
な人、辺見さんの初対面の印象だった。蔵を直したアトリエと学校と
保育園と住宅を1軒づつ撮った。作品はどれも手馴れた感じがした。
撮っている時はアトリエが面白かったが、今は何故かあまり気負った
感じがない傾斜地に建つ住宅が記憶に残っている。あまりお金をか
けないで造った分、しつこさがない。どの建築家にもいえることで、
予算不足の作品には余分がなく、質実で好感が持てるものが多い。
その家もそうだった。
辺見さんと2日ほど一緒にいたら、帰る頃には最初の印象とは
異なり、かなり熱い人だという印象に変わってきた。どこかにいた
なぁそんな人。そうだ!嶋影さんだ。彼と辺見さんは仲良しのようだ。
類は友を呼ぶことは事実である。郡山はもう雪の季節である。今宵
も酒でも飲みながら、建築に熱い話をどこかの居酒屋でしているん
だろう、と想像しながら2人の顔を思い浮かべる江戸の晩秋である。

作品の紹介
城下町のなごりを残す福島県白河市に建つ一部鉄筋コンク
リート造の木造平屋建ての住宅である。高台の家の名の通り
北西方向に那須連峰を望む高台に建っている。テラスへの掃
き出しの開口は引き込みになっており、開放すれば視界が連
峰へと広がるようになっている。リビングには寒さのの厳しいこ
の地方での暖房にと薪ストーブがリビングに置かれている。
また南には、季節の移り変わりを近くに感じれれるように紅葉
が植栽され、障子の向こうに風にゆれる彩りをみることができる。

辺見さんの事務所 (有)辺見美津男設計室 福島県白河市
連絡先 TEL 0248-23-1788
昔町百景-近江八幡-第16回-
「近江八幡」
八幡堀とヴォーリズさんと 滋賀県近江八幡市

ここは近江商人発祥の地である。 伊藤忠、丸紅といった大手企業も
ここが元祖である。 やしかし、ここでデンと舗を構えて商いをしていた
わけではなく、ほとんどは全国を行脚する行商人であった。したがって
全国に今も残る「近江町」は、この人たちに関わる所が多いという。
近江八幡は彼らの本邸である。近江の町は、豊臣秀次が、織田信長
が造った安土町を模して構築した城下町である。 秀次の処刑により
城下町としては僅か10年の命だった。その後は商人町として発展する。
町並みは碁盤の目で、最も整っているのは新町筋である。整備された
通りに、見事な商家が軒を並べている。家は、通りに面して店、座敷
はその奥,さらにその奥に蔵があり、蔵は通りに面して妻側を見せる造
りである。一段と大きな屋敷は西川邸(国重文)で、ふとんの西川の
本宅である。
この町で忘れてならない人に、宣教師建築家のW.M.ヴォーリズが
いる。ヴォーリズは、明治38年に八幡高校の英語教師として来日した。
海外にまで販路を伸ばしていた近江の人たちには、殊に英語教育は
重要であった。明治~大正にかけてのこの町の人たちの英語力は全
国でも群を抜いていたいう。しかし、キリスト教の布教に熱心になり過
ぎたヴォーリズは、僅か2年で退校。そして明治43年に建築設計を主
とする事務所を開設し、それは後にメンソレータムで知られる近江兄弟
社の元となった近江ミッションへと発展した。ヴォーリズ設計の建築は
ここに留まらず、全国に今も多く現存している。
八幡城を巻く八幡堀は今も昔の姿を留め、鬼平や中村主水がふらり
と現れそうな風景を作っている。
:atelierM5/Ki
八幡堀とヴォーリズさんと 滋賀県近江八幡市

ここは近江商人発祥の地である。 伊藤忠、丸紅といった大手企業も
ここが元祖である。 やしかし、ここでデンと舗を構えて商いをしていた
わけではなく、ほとんどは全国を行脚する行商人であった。したがって
全国に今も残る「近江町」は、この人たちに関わる所が多いという。
近江八幡は彼らの本邸である。近江の町は、豊臣秀次が、織田信長
が造った安土町を模して構築した城下町である。 秀次の処刑により
城下町としては僅か10年の命だった。その後は商人町として発展する。
町並みは碁盤の目で、最も整っているのは新町筋である。整備された
通りに、見事な商家が軒を並べている。家は、通りに面して店、座敷
はその奥,さらにその奥に蔵があり、蔵は通りに面して妻側を見せる造
りである。一段と大きな屋敷は西川邸(国重文)で、ふとんの西川の
本宅である。
この町で忘れてならない人に、宣教師建築家のW.M.ヴォーリズが
いる。ヴォーリズは、明治38年に八幡高校の英語教師として来日した。
海外にまで販路を伸ばしていた近江の人たちには、殊に英語教育は
重要であった。明治~大正にかけてのこの町の人たちの英語力は全
国でも群を抜いていたいう。しかし、キリスト教の布教に熱心になり過
ぎたヴォーリズは、僅か2年で退校。そして明治43年に建築設計を主
とする事務所を開設し、それは後にメンソレータムで知られる近江兄弟
社の元となった近江ミッションへと発展した。ヴォーリズ設計の建築は
ここに留まらず、全国に今も多く現存している。
八幡城を巻く八幡堀は今も昔の姿を留め、鬼平や中村主水がふらり
と現れそうな風景を作っている。
